school Life ex see the sea

横浜まで行きたいと言ったのは不二だった。
みなとみらいで開かれてる写真の個展を見に行きたいといった。
オレは写真に興味はあまりなかったけれど、不二がどんなものを好きなのかには興味があった。だから断るつもりなんてなかった。
都大会も無事終了していたし、つかの間の時間を共有することに躊躇う必要なんてない。
でも、いつも悪いと思っていた。
誘うのは、大抵、不二の方。オレはどうしても一歩、出遅れる。
それがずっと気になっていた。
会いたいと思わないはずがない。毎日のように会えるといっても、それは2人だけじゃない。その時間は2人だけのものではもちろんないし、その時はいつも考えてることは「部」とこと、「テニス」のこと。オレも不二も、きちんとわきまえている。それくらいはちゃんと知っている。
オレたちの間にはきちんとした「距離」があって、それはけして縮めることはできない。
同じ人間ではない。無理してみても、相手のすべてを判ることができるはずがない。それくらい判ってる。
当たり前のことだ。

それでも、知りたいと思うのは馬鹿なことなんだろうか…。

気になるけれど、聞けない。



「手塚はさ、ここはよく来るの?」

ここは、横浜中華街だった。
いきなり観光スポットで、場違いに2人。不二と2人で来たのは初めてだ。
いつ来ても、ここは人がうぞうぞと歩いていて、通りを走ろうと乗り込む車のクラクションにもまったく動じることない観光客たちが大通を闊歩している。

「それほど詳しい訳じゃない。こうしてたまに母に買い物を頼まれるから、行く店くらいはだいたい知ってはいるがな」
「でもこんなところまで、わざわざ来る買い物がこれって…?」

不二が、オレのシャツの胸ポケットにある、閉じたままの携帯を覗き込む。そこにある母からのメールには『けいちんろうあんにん』とだけ、うたれている。
そして、オレの手には、ご指定の『杏仁豆腐』が入った紙袋がしっかりと握られていた。

「父が好きなんだ」
「へえ…愛されてるね、手塚のお父さん」
「こんなところまでくるほどのものか?とは思うがな」
「一種のこだわりだね」
「今日、横浜にいくっていわなければよかったな」
「ボクは貴重な体験をしてる気分だけどね。手塚のオツカイに付き合えるなんてさ」

ふふ…と笑う不二は以前一緒に出かけた時に購入したブルーのシャツを着ていた。「0」がちょっと多いだろ?と思ったヤツだ。でも、あのときも思ったが、とても似合ってた。空色よりもずっと濃くて、でも海の色でもない。鮮やかなコバルトブルー。ウエストのあたりで少しタイトになっているシャツはテニス部の中ではさほど体格がいいほうではない不二には、調度よいサイズだ。

「しかしな…、あの写真をみた後に入ったメールがこれじゃ雰囲気がぶちこわしだ」
「んー確かにね、見終わった途端だったものね」
「タイミングが悪すぎる」
「怒らない、怒らない。でも、そんなにあの写真を気に入ってくれたのなら、それはそれで嬉しいけどね」
「すごくよかった…。だからなんかこう…勿体ない気分なんだ」
「よかった。もし気に入らなかったら、どうしようかなーって思ったから安心したよ」

自分の趣味以上に「この写真を見せたかった」といった不二。
その写真をみた時ー。
オレは不二のどれだけを知っているのだろう、と急に不安になった。

「手塚?」
「ん…。今、思い出してた。元々好きだったが、なんだろう…焼きついた感じがする」
「そう?よかった。いい気分転換になったかい?」
「そうだな。ありがとう」
「ふふ…その顔をみれれば、ボクとしては充分満足な感じだね」
「顔にでてるか?」
「うん。さっぱりしてる。でも、何か緊張してる。いい感じの顔だよ。試合の前の君だ。登ったときの事でも思い出した?」

今、オレはどんな顔しているんだ?
不二の茶色い瞳に映る、自分の顔を指差した自分の、焦り顔に、更に焦りを覚える。
オレの眼に映る不二は、いつもよりライトな、穏やかな顔をしている。
とても静かに微笑んでいるのに。
テニスをしている時の不二は時々、普段の不二を見慣れた者にとっては信じられないくらいに凄みを増す瞬間がある。
その小さな全身から、背中から頬を撫でるように冷えた……たった一人で戦うときの激しくて冷たいオーラを放つ。
あの瞬間を目の当たりにするのは、ある種の快感に近い。自分の中で、強烈な衝動が突き上げてくる。
あの不二の隠された一面を知っているのは、間違いなくオレだけだから…。
そんな自信もちょっと急に薄まってくる。オレよりも不二の方が一歩も二歩も先を進んでいるようで…。
夕暮れの空と同様に、自信の光も薄まってしまった。
別に、こんなこと、競い合ってどうこうするもんでもないことくらい判ってはいるが…。
少し先から凪いでくる風。
昼間の暑さも、少し緩み、ふと肌を涼しい風が触れていく。
ああ、もうすぐ夏になるんだな…。


「不二、時間はまだ平気か?」
「え?」
「なあ、ここからなら山下公園まで近いから、そこから横浜まで行こう」
「え?水上バス乗るの?」
「ああ、嫌いか?」
「嫌いじゃないとは思うけど…けど、乗ったことないから」
「そうか…普通はあまり乗らないか」

乗ったことがないということは、不二は、あの景色を絶対にみたことがないのだ。
見せたい。
突然、そう決めた。今からなら、調度いい時間なはずだ。真昼の空も綺麗な青だったし、ましてや今夜は13夜だ。
ぐいっと空いてる左手で不二の右手を掴む。

「じゃ急ごう。後7分で出発するはずだ」
「ええ?まってよ、走るの?勘弁してよ!」
「走る。この時間に船に乗らないと時間がちょっとずれるんだ」
「ええ?なにが?」

四の五の言ってる不二を捕まえて、そのまま走り出す。なんとしても、みせたい世界は後20分で始まってしまう。
その前に…。



部活の走りこみの成果だろう。
中華街の半ばから山下公園まで走って、最終の、2つ手前の便に間に合った。2分前だった。
地元だとあまり用途を感じないからだろう、乗ったことがない人のほうが多い。
現に乗船しているのは、全座席のほんの5、6組…2人連れの観光客ばかりだ。手にはいっぱいの御土産を持っている。
船がどんどん陸地から離れ、不安定に揺れながら湾内に漕ぎ出していく。
夕暮れが近づいて、少し温い海風が肌に心地いい。時々弾かれてくる波の飛沫も気持ちいい。
不二と2人で、後方にあるデッキに出て、そこに座った。
この時間になってしまうと、デッキにでてくる観光客もいない。
だけど、船の中じゃ駄目だ。そこからじゃないと意味がない。船内の、少し汚れたガラス越しにみるには勿体ない。

不二はブツブツ言いながら、潮風に吹かれていた。
水上バスが少しずつ速度を増してくると、髪が散り散りに乱れる。

「もう、走るのは部活だけにしてくれよ。乾の顔、思い出すじゃない」
「間にあっただろう?」
「そりゃそうだけどね。まさか山下公園を、手塚と手を繋いでつっぱしる日がくるとは思わなかったよ」

そりゃあ、確かにそうだな。
オレもそう思う。1人でしか乗ったことのない、この場所に誰かと2人で座ってるなんて…。
今まで、こんなことを考えついたこともなかったな。

「何?手塚。何を思っているのか、いってよ。ボクだってたまには言葉で伝えてほしいよ?」
「え、何が…」

出かけた言葉の端から、不二の目線にさえぎられた。
彼の後ろに広がる空は既に薄暮の色に掠れているのに…コバルトブルーのシャツが、消えた昼間の空の名残のように鮮烈だった。

「君は思ったことの半分も口にしない。ボクは判りたいと思ってるから、いつもキミをみてる。見逃さないようにしてる。今だって…キミは今、どうして言葉を心の中でとめてしまうの?それは口にはだせないの?」
「不二…」
「別にキミの沈黙が怖い訳じゃないけど…。でもね、たまには釣った魚に餌を与えないと、逃げることだってあるかもよ」

デッキ周りの、欄干に凭れるようにして不二が笑う。口元には薄い笑みを残しても、でも言葉は確実に、的確に指してくる。
オレは不二の隣に移って、並んで海を眺める。あと少しで、お前にも、あの空をみせることができる。その時、なんていうだろうか?

「いつも…こうしてオレは一歩遅れるんだよな」
「ん?」
「今日の写真がすごくよかった。オレはお前に判られている気がする。それが杓に触るくらいにな」
「失礼なこと言うね」
「オレは判っているつもり、になりたくない。本当のお前を判りたいと思ってる。でもオレはお前にいつも負けてる気がする」
「変なこと、考えるね。手塚って…」
「そうか?」
「そうだよ。こんなことで勝ち負け考えてたの?ボクらはテニスの試合をしている訳じゃないだろ?」
「そうだな。でもオレは誰よりお前のことをわかっていたい。知っていたい。知らないことがあると思うと暴きたい」
「…手塚」
「不二は、自分の中にたくさんの箱をたくさん重ねて隠していそうだからな。それもいい。でもそれを1つずつ、あけるのはオレがやりたい。誰にも譲りたくない」

何かを言おうとして、少し唇を開きかけたまま、不二は立ち尽くしていた。
不思議なものをみる眼で、座ったままのオレを見つめる。
ほら、言えっていっただろう?言えば、そういう顔をするんだな。驚いたのか?でもオレだって、ただ意味もなく2人で居るわけじゃない。
それくらい、ちゃんと知っていただろう?

「キミさ……、今、すごいこといってるの、わかってる?」
「判ってるさ。こういうのを、独占欲っていうんだ」
「手塚」
「こういうことを言われるって思わなかったか?オレはお前が思っている以上に嫉妬深いと思う。お前に会ってから、自分でも知ったことだがな」
「いいね。それって、気持ちいいよ。ボクだって、キミといるたびに、違う人間なんだな…って思わされる。ねえ、判る?」
「判るさ。オレたちは同じ人間じゃないんだからな。どうやったって、距離は縮まない。別な人間だからな。でもな、オレは自分と同じ人間を好きにはなったりしない」

不二の掌が温かく、オレの肘を包む。
そっと触れた怪我の名残を何度も暖めるように触れてくる。

「なあ、キスしてもいいか?」
「わざわざ聞くなよ、らしくないね」
「確認だ。そうすれば忘れないだろう?」
「嫌味なヤツ…」

不二が立ったまま、少しだけ屈む。
オレはその小さい頭をそっと抱き寄せた。首筋に手を回すと、潮風で少し冷えた感触が指に残る。
なかなか眼を閉じない不二を、そのまま強引に抱き寄せて、軽く唇を寄せてみる。
眼鏡の向こうで、不二の瞳が閉じられたと判った時には、既に焦点が定まっていなかった。
ここまで近くで、不二の顔を見たのは久しぶりな気がした。
唇に触れた、冷たくて柔らかい感触。
それを何度か確かめるように啄ばむと軽く腕の中で体が震えるのがわかった。
温かみが伝わる。
確かに、こうして縮められる距離もある。
矛盾した事だけれど、この距離は大事にしたい。そうすれば、こうしてキスするたびに、感じることが出来る。
2人で抱きしめあって、縮めた距離の重さが伝わるから…。

「手塚、さむくないの…」
「ん。もう、ちょっとな」
「しつこいって…」
「ん…そうだな」

外れた唇の端々から、甘い小さな抗議が聞こえていたが、そんなもの、逃げないなら許してもらっているのと同じ意味だろう?
何度か不二に頭を叩かれて、オレはやっとその唇を開放してやった。

「キミって案外しつこい」
「判ったか」
「ん。気をつけるよ。ここまでされると思わなかったけどね」
「意外性ってやつだ」
「変なこと、思いつかないでよ。これじゃホント、夢にでそうだよ、キミ」


立ち上がると、不二の頭を外湾にむけてやる。
もう時刻がきた。

「わ…」

ベイブリッジをとうに越した辺りで、濃いオレンジ色に揺らいだ太陽が空全体と海の端を染めて沈んでいくところだった。
春から夏にかけての太陽は一際沈む夕日が大きく見える。
太陽の輪郭が揺らいで、高層ビルやホテルの窓ガラスに反射してきらきらと輝く。
まだ少し遠くに見える、みなとみらいの観覧車の灯りが綺麗に瞬き、夜の訪れを告げている。
まだ明るさをとどめた空には、白いつきの輪郭がくっきりと浮かんでいる。あと少しで、あの白い月し、ほんものの月に変わる。
地上から眺める海よりも、はるかに綺麗だ。
足元がおぼつかないような、波間に漂う感覚が余計に気持ちを高揚させるのかもしれない。
人工の光でも、天上の光でも、それは交じり合えば、すべてが美しいと思える瞬間だ。
他の誰にも教えたことのない、瞬間…。

「これをみせたかった。この時間が一番、この街の、この空が綺麗に見えるからな」
「…すごい夕日だね。それに…綺麗な地上…って感じ。へえ、人工のイルミネーションもこうしてみると悪くないね」
「そういってくれると思った。今日の写真のお礼だ」
「…こっちのほうが贅沢な気がするなぁ。恥ずかしいこと、いっぱい言ってもらったし…」

満足そうに笑う不二をみて、やはりこうして正しかったと思えた。
なによりも、なにもかもが焼きつく瞬間を共にしたほうがいい。共有する時間が増えれば、増えるほどに距離は近くなるだろう。
判らないことが、たくさんあるから。
もっともっと近づいていきたい。

「これから夏が続くように…頑張らないとね」
「ああ」
「負けないけどね」
「当然だ」

やがてたどり着く桟橋が近づく。
海の波を見つめながら、触れた背中から温もりが伝わるーーーこの時間を大切にしたい。


I wanna be with you now


                                                             main theme song / final distance